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始まり

その日は三学期の期末試験が終わってすぐ
終業式を目前にした日曜日だった。

午後、本屋にでも行こうと歩いていると
前から女の子がやって来るのに気付いた。

その娘はちょっと俯いていて表情はよく解らなかった。
色白な肌にほっそりした小柄な体
長くて柔らかそうな黒髪を
両のこめかみのあたりから綺麗に三つ編みにしている。

あれっ、あの娘ひょっとして…いや、でもここは東京だしそんなはずは…。

「あの、杉原さん…?」

思い切って声を掛けると、その娘は驚いて顔を上げた。
やっぱり杉原さんだった。

「あっ!あなたは…どうして?」

「俺は今、この近所に住んでいるんだよ。
 杉原さんこそ、どうして東京に?」

「あ、えっと…それは…」

杉原さんは真っ赤になって俯いた。

杉原さんは俺が高松に居た頃のクラスメートだ。
中学の間ずっと一緒のクラスだった。

もっとも、杉原さんは病弱で学校を休みがちだった。
中学3年の途中から普通に登校するようにはなったけど
まだ遠出なんてできそうもなかった。まして東京まで来るなんて…。
まあ、あれからそろそろ2年、だいぶ体も丈夫になったのかな。

杉原さんはとてもかわいくて儚げな女の子で
(典型的な、護ってあげたくなるタイプだ)
クラスの男子でも憧れている奴は多かった。かく言う俺もその一人。

まあ、杉原さんはすごく恥ずかしがりやで
誰とも付き合おうとはしなかったけど。

いや、あいつは杉原さんと付き合っていた、のかな…?

「そういえば、あいつもこの近くに住んでいるんだよ」

あいつ、というのは中学3年の時の同級生だ。
と言っても春に転校して来て
半年ほどでまた転校してしまったんだけど。

杉原さんはあいつが高松にいる間は
ずっと学校を休んでいたけれど
時々あいつが先生に頼まれて
杉原さんにプリントを届けに行っていたのを俺は知っていた。
そう言えば、あいつの転校と入れ替わるみたいに
杉原さんは普通に登校するようになったんだよな。

俺は高校に上がるときに東京に引っ越したんだけど
同じクラスにあいつがいて驚いた。

「あ、でもあいつ、今日はいないはずだな。
 せっかくだから会えればよかったんだけど」

「…ええ、そうみたいですね」

「知ってたの?」

「えっと、その…はい…今、あの人の家に行って来ました。
 あ、それじゃ、私、飛行機の時間があるので…これで…」

杉原さんはなんだかあたふたしながら立ち去ろうとした。

もしかして杉原さん‥‥
あいつに会うためだけに高松からわざわざ来たんだろうか?

と、杉原さんは足を止めて言った。

「あの…お願いがあるんですけど」

「ん、何?」

「あの…私が来たこと…あの人には言わないでください」

「? いいけど…杉原さん、あいつに会うつもりだったんじゃ…」

「お願いします」

俺は杉原さんのこんな真剣な表情は今まで見たことがなかった。
その瞳に圧されるように、俺はそれ以上何も言えなかった。

 

その数日後、俺は終業式を終えた。明日からは春休みだ。
みんな休みの予定があるのだろう。
学校中がウキウキしているように見える。

今日は終業式で早く終わるから
あいつを誘ってどこかに遊びに行こうと思っていた。

普段、あいつは放課後になると
近所のレストランでバイトしていることが多いし
休みになるとふらっと旅行に出たりすることもあるけど
確か今日はシフトは入ってなかったはずだし
いくらなんでも今から旅行に出たりはしないだろう。

…と、思ったはいいけど
気付いたらあいつの姿が見えなかった。
多分、あそこだな。

俺は校舎の屋上に上がった。
案の定、あいつは屋上のど真ん中で
鞄を枕に流れ行く雲をぼーっと眺めていた。
声をかけたが、なんだか気の抜けたような返事を返しただけだった。

「何か悩み事か?お前らしくもない」

「その言い方じゃ、何だか僕が無神経な人間みたいに聞こえるね」

無神経と言うより鈍感なんだけどなこいつの場合‥‥
と俺は思ったけど口には出さなかった。

こいつは基本的にすごくいい奴なんだけど
どうも自分が女の子にモテるという自覚がないらしい。
時々、突飛なことをする、変わり者でもある。

でも本当に爽やかに笑う奴で妙に憎めないところがある。
まあ、だからこそ男女関係なく好かれるんだろうけどね。

「…実はさあ」

「? どうした?」

こいつは上半身を起こすと、鞄を開けて封筒を取り出した。

「日曜日に家に帰ったら、郵便受けにこれが入っていたんだ」

封筒には綺麗な字でこいつの名前しか書いてなかった。

切手も、住所すら書いてない。
裏返したが、差出人の名前もなかった。

「読んでみろよ」

「いいのか?」

中は割とありふれた便箋が1枚だけ。そこには簡単な文章が書いてあった。

覚えていますか?
初めて会ったあの日のこと
そして、あの思い出を
あなたに…あいたい

便箋にも、差出人の名前は書いてなかった。

こいつの話からすると
日曜日にこいつの家の郵便受けに直接投函されたことになる。

一体、誰が…?
そのとき、俺は日曜日に会った杉原さんを思い出した。

俺の心の内を知る由もなく、こいつは言った。

「誰かのいたずらかなとは思うんだけどね」

「いたずらってことはないだろ。多分、出した相手は真剣だぜ」

自分でも、言葉に理由もない怒りが含まれていたように思う。

「なんでそんなことがわかるんだよ?」

杉原さんに言われたことを思い出して
俺は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「じゃあ何を悩んでいるんだよ、お前は」

「それは…」

「心当たりはあるんだろ?」

こいつが小さい頃から何度も引っ越しを繰り返してきたのは俺も知ってる。

「ないこともないけど…
 北海道や九州からわざわざ手紙を出しに来ると思うか?」

「結果的にそうなっただけだろ。留守だったんだから…
 て言うか、お前がそんな常識的なことを言うか…?
 お前ならやりかねんじゃないか」

「そりゃそうだけど…
 って僕のことをどういう人間だと思っているんだ、お前は?」

「とにかく行ってみたらどうだ?
 昔住んでいた場所を巡る旅なんてのも悪くないんじゃないか?」

そうじゃなくても頻繁に旅行している奴だし。

「…ああ、そうかも知れないな」

 

翌朝、家の前に小さな鞄一つ担いだあいつが立っていた。

「よう、これから行くのか?」

「ああ、お前が勧めてくれたことだし、
 まずは高松を目指してみるかな」

そう言うとあいつは踵を返して駅に向かって歩き出した。

それを見送りながら
俺はあいつが向かう高松に居るあの娘のことを想った。

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